インターネットが渇いている。
私がここで指す“インターネット”は、Yahoo!ニュースのコメント欄とTwitterだ。私自身は無知でバカだが、Twitterでフォローしている方たちのツイートを拝見するに、差別やヘイトを引き起こすコメントやツイートが、そこかしこで投稿されていることがわかる。
思い出したのは、2015年に起きたジャーナリストの後藤健二さんの事件だ。同氏がシリアで殺害された際に、ネット上で、声の大きい人たちによる心ないコメントの数々を見た。インターネットという土壌はこんなにも渇いていたものか、と思ったものだ。
インターネット上にあふれる、言論のようなもの。そこから生まれる分断の数々。西村博之氏による、沖縄を巡る発言や行動は記憶に新しい。「ああ、インターネットって、どうして、こんな空気なのだろう」と思った。声の大きい人ばかりが目立つインターネット。それがマジョリティーかのように錯覚されるインターネット。これでいいのだろうか。
分断する社会――いや、人と人とをつなぐ言葉が必要だと思い、私の思う“論者”に寄稿の依頼をした。当初は取材予定だった本企画を寄稿という形にしたのは、問題意識こそ持てども、自分自身の知見があまりに足りなかったからだ。
本を何冊も読み込み、勉強こそしたが、所詮は付け焼き刃に過ぎなかった。こうして冒頭のあいさつを書いている今でも、自分には背伸びした企画だと自覚している。それでも、メディアを運営する者として、本企画をやりたいと思った。背伸びくらいしないと、成長はできないという思いもあった。
◆
正論が煙たがられる社会。それどころか、リベラルという立場のポジショントークにさえ受け取られてしまう世の中だ。それが分断を生み出す。政治が引き起こす分断が前提としてあるが、本企画で言うそれは、SNS上の発言が引き起こすものについて限定している。
SNSは強い言葉を好むところがある。極端な意見を言っていくようになると、なおさら対話が成り立たない。“勝ち負け”の論争――つまりは、論破になりがちだ。「それって、あなたの感想ですよね?」が小学生の流行語の1位だと聞いて、頭が痛い。私はそれに抗いたい。
◆
日本には、「内心の自由」というものがある。正しくは、日本国憲法第19条「思想及び良心の自由」で、国民の権利として保証されている。国民が持つ自由の一つで、自らの思想が国家によって制限されないというものだ。思想・良心の自由が憲法に規定されるに至ったのは、明治憲法下において思想の自由が抑圧された苦い経験への反省に基づいている。
しかし、今、この「内心の自由」をSNSで履き違えていると感じる発言が散見される。何を言ってもいいのかと言われれば、そうではないだろう。歴史の知見が足りないことによる事実誤認のコメントや、著しく良心に欠けるヘイト発言の数々を見逃していいのだろうか。国家が介入していなければ、何を言ってもいい世の中なのだろうか。人々による発言が、差別や分断につながっているのだと考えれば、是非を問うまでもないだろう。
こんな小さなメディアで一石を投じる、だなんてことは言えない。砂漠に砂粒を撒くようなものだろう。ただ、誰かにとっては、一粒の滴になり得るかもしれない。
このあいさつ文を何度読み直しても自分の底の浅さを感じるが、この企画は今後もオファーを出し続けていく。そのなかで、破調をはらむ部分も出てくるだろう。しかし、そこにこそ、目を向ける何かがあるはずだ。そして、「はい、論破」で終わる潮流に抗いたい。人と人とのつながりが生まれる言論の場が生まれてほしい。土壌を耕すだなんて言うには、おこがましいにも程があるが、見守っていただければ幸いだ。
石川裕二
>谷隆一さんの寄稿を読む
>中川淳一郎さんの寄稿を読む
>飯間浩明さんの寄稿を読む