谷隆一さんは、私のかつての上司だ。ご本人に言うのは気恥ずかしいが、この人に聞いておけば間違いない、という信頼感さえある。まだ、私が同氏から学び足りていない、という気持ちもあるのだろう。そんなわけで、「Tokyo Reimei Note」としての1弾目の企画となる「編集者をむしばむ無力感について」に続いて、ご登板いただいた次第だ。「地域」からの視点で、言論の自由について寄稿をいただいた。
<プロフィール>
谷隆一(たに・りゅういち)
1974年生まれ、埼玉県出身。株式会社タウン通信の代表取締役。広告代理店勤務、地域情報紙の記者を経て2008年に地域紙「タウン通信」を創刊。「タウン通信」は東京都西東京市・東久留米市・小平市、埼玉県新座市で隔週9万部を配布している。著書に『議会は踊る、されど進む~民主主義の崩壊と再生』(ころから)、『中高生からの選挙入門』(ぺりかん社)など。
市長が予算を一人で決めたトンデモ政治
10年ほど前、東久留米市(東京都)でトンデモ事件があった。
380億円もの当初予算案を、市長がたった一人で決めてしまうという出来事だった。大型商業施設の誘致問題を発端に市長と議会の対立が深まったためなのだが、原因が何であれ、市民の代表者が集まる議会を無視するというのは横暴としか言いようがない。
ところが、トンデモは続く。
議会は怒りを露わにしながらも、不信任決議を突き付けるでもなく、結局市長は残りの1年の任期を務め上げてしまった。さらに、この横暴を許した議員たちは、次の選挙で全員が――一人残らず全員が――立候補した。
東久留米市の定数は22議席。新人で立候補した人物が1人だけおり、22議席を23人で争うという、有権者にとってはまったく関心の持てない選挙となった(ちなみに、新人の立候補者がトップ当選した。加えていえば、この当時民主党所属の議員だった富田竜馬氏が、現在、自公の応援を得て市長になっている)。
どうしてこういうことが起こるのだろうか。地方政治における市民の不在は深刻なものがある。
迷走する市長をクビにすることもできなかった議員たちが、再び4年の任期を得る。その報酬は、年間およそ800万円。「ならば、私が」と立ち上がる人が出て、それを支援する仲間が現れても不思議ではないように思うが、そうはならない。
何が起こっているか知らなかった? それもあるかもしれない。地域に関心がない? そういう人も確かにいる。
しかし、たぶん一番の理由は、「誰かとそれらについて話したことがない」ということではないだろうか。地域の政治は最も身近なものなのに、どういうわけか、踏み込んだ市政批判をするとプロ市民やら「そっち系」的な見方をされやすい。
そうしたことを肌感覚で知るからこそ、大半の人が口をつぐみ、その結果として市政は共有されにくくなる。だが、一方で、何が起こっているのかを知りたいという自然な欲求が消えるわけでもない。
2016年に18歳選挙権が始まるとき、『中高生からの選挙入門』(ぺりかん社)という本を書いた。
このとき、18歳前後の若者たち5人による座談会を収録したのだが、その参加メンバーの中に、その名も「知りたい!!」という自主学習サークルを作り、その時々の政治のトピックや社会問題について、調べたり意見を交わしたりしていた若者がいた。
彼はこう言った。
「大学では友人と政治の話をしにくい。でも、知りたいことがたくさんあり、人と意見を交わしたいと思っている」
自由な言論に必要なこと
結局、視野を広げ、情報を知り、新しい価値観に出会うには、人と話すことが一番の近道となる。
身近な例でいえば、「あそこにスーパーができた」「あのレストランはどうだ」「今度、お祭りがある」といった地域の話題は、たいていは口コミで広がる。ネットの世界においても、私たちは口コミ欄を参考にし、SNSで他者から情報を得る。
問題は、レストランの評判やイベントの案内は気軽に話せるのに対し、政治や社会問題についてはそうならないところにある。
では、どうすれば、政治なども含めて、あらゆるトピックを気軽に話せるようになるのだろうか(つまり、自由な言論の場を獲得できるのだろうか)。それにはやはり「土壌」を作ることが必須となるのだろう。
そのためには、教育や報道を変えていくことが求められるのだろうが、それへの言及は専門家に委ねたい。地域紙に長く関わってきた私からは、「まず先にリアルな人間関係が必要なのではないか」という原点に返るような話をあえてしたい。
探検家・関野吉晴をヒントに
さて、私がここで提示するのは、「関野吉晴的思考」となる。
関野吉晴さんは、人類が南アフリカから全世界に広がっていった「グレートジャーニー」のルートをさかのぼったことで知られる探検家だ。医師でもあり、武蔵野美術大学で教授も務めた(現在は名誉教授)。
ちょうど武蔵野美術大学を定年退職されるときにお話を聞かせていただいたことがあるのだが、数々の興味深い言及の中で、特に、アマゾンの原始的生活を送る人々と現代人との差異を「時間」と「保障」から指摘されたのが印象的だった。
若いときにアマゾンを旅し、原始的な生活をしている部族に入り込んでいった経験を持つ関野さんによると、原始的生活を送る人々に、時間の感覚というものはほとんどないのだという。
計画的な栽培や食料保存を行わない彼らにとって、時間というのはせいぜい燻製が傷む1週間程度の感覚しかないらしい(そこから先をイメージすることができない)。
備蓄、保存ということを行わないのは、ジャングルが豊かで食料にいつでもありつけるからなのだが、これに対して我々の社会では、特に貨幣をもって備蓄(貯金)に励む。
なぜ備蓄をするか――といえば、それは安全保障のためである。万一のときに飢えないために、私たちは貯金残高をにらみながら消費をし、さらに発展させて、医療保険や損害保険、そして生命保険に入る。
そこにある心理は、「不安」だ。食料がないと困るという不安から備蓄が始まり、その備蓄をいつか失うのではないかと常に不安感に苛まれる。一旦ネガティブに思考すれば、不安のループに終わりは来ない。
では、不安から逃れる術はないのだろうか?
「絆」が不安を解消する
ここでヒントになるのが、アマゾンの人々の「安全保障」だ。
関野さん曰く、アマゾンにも生存を脅かすものは当然ある。ケガをすれば猟に出られないし、人間関係のトラブルもある。
そうした万一に備えて彼らは彼らなりの安全保障をするわけだが、それは人間同士のつながりなのだという。
まるで任侠の世界のような話なのだが、例えばナイフを3本持っていたときに、彼らはそれを所有・保管しようとはせず、今は使わない2本は人にあげてしまうのだという。そのときに彼らは、「俺とお前は仲間だよな」という一種の契りを結ぶ。そうしたことを日々の中で繰り返しながら、人間関係を構築して、万一のときに助け合うのだという。
急に卑近な話に引き寄せて恐縮だが、この話を聞いたときに私が想起したのは、自分が創業(地域紙の発行)をしたときのことだった。起業したところでうまくいく保証はなく、当時すでに子どももいたため、失敗すれば家族が路頭に迷う恐れがあった。しかし、そこで飛び込むことができたのは、「どうにもならなくなったら、あの人に拾ってもらおう」と信じられる先輩経営者がいたからだった。
その人と何かを約束したことはない。それでも、「あの人なら」と信じることはできた。
「面倒」を避けられる社会のなかで
誰もが安心して暮らせるためには、社会保障を手厚くしていくことは当然大事だろう。
だが、それよりも安心できるものは、頼れる人の存在なのかもしれない。
いざというとき人は裏切り冷たいものなのかもしれないが、「だから社会保障のほうが安心だ」と言い切れるだろうか? 制度がいつ変わるかも分からないのに?
ゆえに私たちは、他者への信頼度を高めていくために、絆を必要とし、絆を作るために小さな契りを処々に結び、ときにはその絆を試すような面倒くさいことまで行う。正月に親戚を回り、年賀状を出し、お中元・お歳暮の類をし、慶事・法事を無視できないのは、面倒ごとの代表例だ。
しかし、社会が発達するなかで、私たちはそうした面倒ごとを避けられるようになった。年賀状は一斉メールで代替され、この2年はコロナ禍を理由に葬儀が劇的に簡略化された。親族だけの「家族葬」どころか、通夜を行わない「一日葬」が増え、さらに、セレモニーを省いてそのまま火葬場に行く「直葬」も珍しくない。
日常生活においても、人々の交流は省けるようになっている。
今どき、しょう油がないからといって隣近所に借りる人などいない。近くにコンビニやスーパーマーケットがある。しかもその会計においては、セルフレジが広まった。店頭で人々は挨拶すら交わさない。個人商店の時代にあった店先での関わり合いは、今や物珍しいものにさえなっている(西武ゆうえんちが「昭和の商店街」を観光化している)。
人々が集まる公園でさえ、交流は乏しくなっている。サッカー少年に「そんな練習じゃ、日本代表になれないぞ!」と冗談まじりに声をかけた年配男性が、不審者通報されたという事例もある。
公園は迷惑施設とみなされることさえあり、西東京市では少し前に、大型公園の噴水で遊ぶ子どもの声が「うるさい」として、近所の人から訴えられた事件まであった。
他者への信頼感を得るために必要なものとは
こうした状況と並行して、ネットが拡張し、私たちは情報の波を自在に移ろえる楽しさを知ってしまった。そしてその気楽な、責任感を必要としない空間の中で、匿名を盾に勝手気ままを発信して、時に承認を得、時にマネーを得、時にさっと姿をくらますことができるようになった。
同時にSNSの世界では、タップ一つで友達になったり離れたりできるようになり、そのイージーさを自覚するがゆえに、LINEに代表される、素早い返信を暗黙に強要するような契りの結び方が一般化している。そしてその契りは、人生において最も重要な「時間」を奪う。コミュニティの形がこのように変わっていくなかで、特に子どもたちは、どのように精神を形成していくのだろうか。
この原稿の結びとして、白梅学園大学・短期大学(小平市)が行った研究結果(※)を紹介したい。
小学校の通学区域が固定された地域と選択制の地域を比較し、人と人のつながり(=ソーシャル・キャピタル/社会関係資本)がどう人格形成に影響するかを探ったもので、以下のようなことがはっきり言えるという。
「人間関係を強く持っている人ほど人間への信頼を高く持っており、人間への信頼を持つ人ほど幸福感を強く感じている」
ここから見えてくるのは、自由にものを言い合えるようにするには、まず先に人間関係の構築――もっといえばソーシャル・キャピタルが自然にある社会が必要だ、ということだ。
その点、上記でネガティブなことをさまざま書いたが、地域の中にはまだまだリソースがある。ネットの情報がそれらをうまく結び、リアルな人間関係を加速度的に生み出せたなら理想的だろう。
例えば、子どもが生まれ、ネットで子育てサロンを知り、そこでママ友とつながり、やがて自主サークルを作っていく――というふうに。
※論文「地域ネットワークとソーシャル・キャピタル―小平市及び品川区の調査から―白梅学園大学・短期大学=森山千賀子・瀧口優・草野篤子・瀧口眞央・吉村季織、2011年」。なお、末尾の一文は、調査に参加した瀧口優教授の発言で、拙著『議会は踊る、されど進む』から抜粋した
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