編集者・石川裕二の超個人的サイト

EDITOR'S-ROOM

編集後記「編集者をむしばむ無力感について」

僕は大学を卒業した2008年に、株式会社vivaceという編集プロダクションに入社した。09年には、西東京市など多摩地域4市で発行している地域紙の版元に転職。編プロ時代のつながりで、いろいろなクリエイターと知り合う一方で、地域紙という特性上、「それらの人・ことを紹介したい!」ということができないジレンマが募っていき、2011年に「東京黎明ノート」という自身のサイトを立ち上げた。

その時に地域紙の代表から言われたのが、「メディアをやるなら、きっちりやりなさい。会社に残るか、自身のメディアをやるのか選びなさい」という選択だった。代表から「取材した記事をボツにするのはあってはならない」と言われていたので、既に「東京黎明ノート」の取材を始めていた僕は「辞めます」と即答した。

しかし、「東京黎明ノート」の更新を続けることは、決して容易いことではなかった。自腹を切って取材対象者やデザイナーさん、カメラマンさんなどにお金を払っても、戻ってくるお金はない。「東京黎明ノート」は、情報の空白地帯を埋めたいという思いで始めたメディアだったので、扱うテーマはニッチなものばかり。PV数も伸びない。「やってる意味があるのか?」と自問自答した末に、2015年を最後に更新をストップした。サイトを閉鎖しなかったのは、心のなかのささやかな灯として「東京黎明ノート」を残しておきたかったからだ。

その後の7年間は、僕がうつ病を患ってしまったこともあり、無気力な日々を過ごしていたが、18年に行った、とあるバンドのライブを観て、考えさせられることがあった。そのバンドは、僕が高校生の頃は日本武道館でライブをするほどの人気だった。

しかし、僕が18年に行ったライブは1500人ほどのキャパシティ。演奏に感動する一方で、「おれはなんで、自分がすばらしいと思うもの(つまり、そのバンド)のことを伝える努力をしてこなかったのだろう」と思わされた。おこがましく不遜な考え方だが、おれがその人たちのことを影響力のあるメディアで伝え続けていれば、もっとデカいキャパの箱でライブをできていたのではないか、と感じたのだ。つまりは、世界をかえたかった。

そこで、僕は知名度や存在感の強いメディアへの関わりを求め始めるようになる。それが、今、執筆している「コロコロオンライン」や「ねとらぼ」だ。

しかし、それらの有名な媒体でコンテンツ制作に携わっても、どこか無力感を感じていた。ねとらぼで書いた最初の記事はいきなりバズったが、一方で、数字に踊らされている自分の心も自覚していた。何がバズだ、自分が伝えたい情報も伝えないで、という思いもあった。

「おれ、こんなんでいいのかな」

そこで僕は、ゆかりのある編集者の方たちは、どんな気持ちで仕事をしているのかを聞いてみたい、と考えるようになった。自分が発信すべきと思う情報を発信する場所として立ち上げた本サイトを動かせないでいる、自分の不誠実さにも、いい加減、嫌気が差していた。

取材させていただいたのは、僕が勤めた2社の代表、1社目と2社目の転職の間に面接をしていただいて落ちたものの何故か毎年仕事をくださる広告会社の代表、コロコロオンラインの副編集長、そして、一連の取材の写真を担当してくださった写真家・池田宏さんの写真集『AINU』の編集をした浅原裕久さんの5人だ。

いざ、自分のサイトの取材が動き始めると、今度は逆に「ねとらぼ」でコタツ記事を書いていることに違和感を覚えてしまい、執筆を離れることにした。せっかく拾っていただいた角田さんには不義理なことをした。頭が垂れる。一瞬の大通り、楽しかったです。

音楽でたとえる。要は、おれは、日陰者でもいいから、シンガーソングライターでいたいのだと思った。企画をつくり、取材をし、記事を書く。それがしたいことなのだ。今はもう、世界をかえるつもりはない。このインターネットの片隅にあるページを読んでいるあなたにとって、少しでも有益な記事になっていれば、それでいい。僕は、自分のつくるものに対して、多くを求めすぎていた。

そして、本企画の一連の取材をしてわかったのが、みんな、無力感など感じていないということだ。僕が勝手に内省的になって深刻になり、公開された記事への反応に向き合いもせずにグジグジしていた。知ろうとしないから、わからない。わからないから、悩みとなる。ただ、それだけのことだ。いや、その答えは、はなからわかっていた。答え合わせがしたかったのだ。何が無力感だ、勝手に深刻ぶりやがって、と今なら思う。

2022年6月27日夜。一連の記事の成形が終わり、あとは自分の編集後記を書くだけだ。

今回の取材では、自分の考えていることの答え合わせができたばかりでなく、新しい発見がいくつもあった。それを一人ひとりに宛てて書いていくのは気恥ずかしいので差し控えるが、岡さんには、忘れてしまっていた制作への情熱を呼び覚ましてもらった。「あんた、うちの出身でしょ! もっと、ちゃんとしなさい!!」――そんなビンタをくらったかのような気分だった。本人には、微塵もそんなつもりはないだろうが。

ある種、自分のルーツを辿っていくような奇跡的なスケジュールで進んだ一連の取材は、僕の禊(みそぎ)体験のようでもあった。不義理をしていたにも関わらず、取材を受けてくださった谷さん、高木さん、岡さんには頭が上がらない。

いくつもの金言を残しておきながらも、全然そんな素振りを見せない小林さん。これからも、よろしくお願いします。

デザイナーの森田さん、いつも急に動き始める僕を、飄々(ひょうひょう)と支えてくれてありがとう。

12年来のクライアントのかわけんさん、すっかり沈んでしまっていた僕の気持ちを引き上げてくれて、ありがとうございました。

そして、2年前に宇都宮で僕の心に火をつけてくださった池田さん。明日は僕の撮影、よろしくお願いします。

最後に、読者のみなさん、更新が止まっている数年間、毎日数百のアクセスがあることを確認していました。ありがとうございます。よかったら、また、読んでやってください。


▲2022年6月28日撮影。新卒当時、ガラケーの公式サイト制作を担当していた109前にて

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