矢部太郎さんが、出版社を立ち上げたというポストがXで流れてきた。彼には、一度『大家さんと僕』の関係で取材したことがある。その時に「いつか、お父さんのことを描きたい」と言っていたのを覚えていたので、『ぼくのお父さん』も読んでいた。その父・やべみつのりさんのイラストによる子育てのノートをスキャンした約1000ページの大作『光子ノート』を出版するというポストを読み、彼の執念じみた何かを感じた。矢部太郎さんが何を思い、出版社を立ち上げたのかを親子インタビューから紐解いていく。
<プロフィール>
やべみつのり

1942年、大阪府に生まれ、岡山県倉敷市に育つ。紙芝居・絵本作家。『光子ノート』(たろう社)のほかに、『かばさん』『ひとはなくもの』(いずれも、こぐま社)『あかいろくん とびだす』(童心社)など。第34回五山賞奨励賞受賞。
矢部太郎

1977年生まれ、東京都出身。芸人・漫画家。1997年にお笑いコンビ「カラテカ」を結成。2018年、初めて描いた漫画『⼤家さんと僕』(新潮社) で第22回手塚治虫文化賞短編賞を受賞し、シリーズ累計135万部の大ヒット。
写真=池田宏
取材・文=石川裕二
『光子ノート』を出版しようと思ったワケ
――太郎さんが『光子ノート』を出版しようと思ったのは、どうしてだったのでしょうか。
太郎さん:お父さんからこれ(=光子メモノート)を初めて見せてもらった時、量と内容がすごいな、見たことのないものだなと思いました。とんでもないものを見てしまったと。これを元に『ぼくのお父さん』(新潮社)というマンガを描いて、納得いくものができたんですけど、心のどこかでは「光子メモノートもすばらしいんです!」という気持ちがずっとありました。僕が2024年に立川のPLAY! Museumで「ふたり 矢部太郎展」を開いた時にも、このノートを展示したところ、いろいろな人から「素敵ですね」と言ってもらえて、やっぱり出版したいという気持ちになりました。
――『ぼくのお父さん』のあとがきの漫画では、段ボールで光子メモノートが送られてきたとありましたが、その時に初めて目を通したんですか?
太郎さん:そうです。実家にあったのは覚えているんですけど。
みつのりさん:家族に見せるために描いていたわけじゃなかったので、ほとんど誰にも見せてきませんでした。
太郎さん:でも、『ぼくのお父さん』を描く時に初めて見て、衝撃を受けたよ。熱量がすごかった。ヘンリー・ダーガーという方が、誰に見せることもなく数百枚もの絵と物語を描いていたのを死後、大家さんが見つけて話題になって出版もされた『非現実の王国で』という作品があるんですけど、それに通ずるものがあるなって。

▲『光子ノート』の元になった、光子メモノート
――光子メモノートは、ご実家のどこに保存していたんですか? みつのりさんのお部屋でしょうか。
みつのりさん:そうです、アトリエの本棚ですね。僕にとっては大事な物なので、自作のケースに数冊ずつ入れて本棚に置いていました。
太郎さん:お父さんは自分で取り出して見ることはあったの?
みつのりさん:うん、それはあった。自分のために描いていたからね。
――みつのりさんは、どうして「自分のために」光子メモノートを描き始めたのでしょうか。
みつのりさん:生まれた時から1歳になる頃までは、家内が文章で書いていました。成長記録のような感じで。それで、娘が1歳になる時に『光子ちゃんは1歳です』という絵本をつくったんです。その頃から、光子メモノートも僕が描くようになりました。
太郎さん:お母さんは忙しくなって書かなくなったのかな?
みつのりさん:どうかなぁ。確かに、介護の仕事が忙しかったかもしれない。一方、僕はその頃、フリーのイラストレーターだったんですよ。でも、当時、広告代理店から頼まれたイラストを描くのが苦しくなってしまった。絵を描く喜びを感じられなくなっていた時期だったんです。描くことをやり直したいという気持ちで、光子メモノートを描き始めた気がします。

▲今年で15年を迎える「Tokyo Reimei Note」でインタビューカットを掲載するのは初。お二人の間に流れる空気感を伝えたかったのです
みつのりさんがどん詰まりだった時に光子さんが生まれた
――描くのが苦しくなっていたというのは、何か理由があるのでしょうか。
みつのりさん:日本は高度成長期でしたから、「24時間働けますか?」なんていうコマーシャルが流れていたくらいです。今とは全然違う空気感でした。その波に全然乗れなかったんですよ。僕は成長願望みたいなものがあまりなくて。それよりも、自分が生きているっていうことを、もっと日々の中で感じたかったんです。……あの、僕は詩人の友達が多かったんです。鈴木志郎康さんとか、正津勉さんとか。
太郎さん:正津勉さんはつげ義春さんと仲が良かったんだよね。
みつのりさん:そう、この間もつげさん原作の『旅と日々』という映画を観た。やっぱり、すごく共感するんですよ、“あの世界”に。結局、僕は生きているっていうことを自覚したかったんでしょうね。そういう時に、娘が生まれた。何も知らずに生まれた子どもが、どういう風にいろいろなものに出会って、どう成長していくのかっていうのを、僕なりにあの絵で残すことに溺れていったんだと思います。
――溺れるとは素敵な表現ですね。つまり、夢中になっていったと。
みつのりさん:世の中はイケイケドンドンみたいな雰囲気でしたけどね、だんだん頼まれ仕事をやらなくなって。やれなくなっちゃって。そういうのを、家内は許してくれたので。
――『光子ノート』のあとがきで、みつのりさんが「どん詰まりだった僕は」と書いてあって、どういうことかお聞きしようと思っていたのですが、そういうことだったんですね。同時に、光子メモノートを描くことで「自己回復していった」ともありました。
みつのりさん:ジレンマはありましたけどね。ちゃんと働かなきゃと。一方で休まなきゃという気持ちもあったので、この頃は全然仕事をしようとしていませんでした。家内もね、理解してくれていたというよりは「こういう人だから仕方がない」と諦めていたんじゃないかな(笑)。

▲「わはは」と笑う、みつのりさん。胸には自著『かばさん』のブローチが

▲取材中、みつのりさんはよく笑っていました。太郎さんの視線も温かい
太郎さん:そういう感じはあるかもね〜。お父さんって、一緒にどこかに行くとすぐに写生を始めちゃうんですよ。だから、「つまらなかった」とお母さんは言っていました。それは、お姉ちゃん(=光子さん)も小さい頃思っていたみたい。
みつのりさん:え〜〜。
太郎さん:言ってたよ(笑)。お母さんはお父さんに依存していない部分があるかもしれません。
みつのりさん:依存されなさ過ぎて「いつでも別れてあげる」と言われていました。でも、別れられたら僕が困るから、別れてくださいなんて言ったことありませんけど。こうやって振り返ると、結構だらしないお父さんでした。
編集で意識したのは「連続性」
――『光子ノート』では、カミソリでケガをしてしまうページが衝撃的でした。このほんわかした空気のなかで、スプラッタかのような描写が出てきてビックリしてしまって。
みつのりさん:普通の親は、小さい子どもがカミソリを手にしていたら「危ない!」と取り上げますよね。僕はね、ハラハラドキドキしながら見ているんです。どうしてかと言うと、子どもと何かとの出会いを取り上げることになるじゃないですか。何でもかんでも親が「これはダメ、あれはいい」と判断していると、本来の子どもの姿を見られないんです。特に、身体の中に血が流れているのを初めて感じる姿は、カミソリを取り上げてしまったら絶対に見られないですよね。
太郎さん:温かく子どもを見て描いている部分もあれば、今みたいに俯瞰した視点で見ているのが絵にも表れていると思います。
――そういうところも理解して、太郎さんは編集作業をしたんですね。載せるページと載せないページは、どうやって選別していったんですか?
太郎さん:光子メモノートは全部で2000ページ近くあります。『光子ノート』では、幼稚園に通い始める3歳の頃から、弟の僕が生まれるまでの約1000ページを抜粋しました。なるべく日常の連続性を感じられる構成になるように意識しています。たとえば、小さい子って同じことを何度もするじゃないですか。そういう部分はあえて入れています。
――表紙をこのページにしたのは、どうしてなんですか?
太郎さん:装丁の名久井直子さんが「これがいいですね」と選んでくれました。顔が隠れていて、光子ちゃんがいないようにも見えるし、顔がない絵の分、読む人が自身を重ねられるじゃないですか。何より、日常のささいな瞬間の絵でいいですね、となりました。
――装丁を名久井直子さんにお願いしたのは、どうしてですか?
太郎さん:「これ読みたいな」と思って買った本が、軒並み名久井さんの仕事だったりするんです。それと、先ほどお話しした展示の際にも来てくださって、「お手伝いしますよ」と仰ってもらえたのをすごく覚えていて。めちゃくちゃ忙しいと思うんですけどね。うれしくって、お願いしました。

▲表紙のイラスト
『光子ノート』は写真では残せなかった記録
――『光子ノート』のまえがきの漫画にありましたが、太郎さんのお付き合いのある版元では『光子ノート』を出版するのは難しいという結論になったんですよね。でも、そこで諦めずに自ら出版社を立ち上げるというのは、すごい執念だなと思いました。
太郎さん:周りに、自費出版で本を出している方が何人もいたんです。小さい頃からお父さんと一緒に本をつくったりもしていたので、最終的には自分でつくれるというのは頭のなかにありました。それに、今は小部数でも印刷してくれる会社がありますし、DTPツールも進化しています。どこかにお願いし続けていれば出してくれる出版社があったかもしれませんが、1000ページという常識を逸脱した書籍をつくるなら、自分が責任と覚悟を持ってやればいいと直感で思ったんです。それが2023年の夏頃でした。
――そこから約2年半で出版となったわけですね。みつのりさんは、完成した本を見てどのような気持ちになりましたか?
みつのりさん:倉敷(※2025年10月から12月まで開かれていた展示「やべみつのりと矢部太郎〜『ぼくのお父さん』のふるさと・倉敷」)で初めて見たんですよ。初日に段ボールで届いて。それまでにちょこちょこ話は聞いていたんですけど、ついに完成したかと。
太郎さん:スケジュールが厳しかったので、いろいろなことをお父さんに確認せずに「こっちで進めちゃうね!」という感じだったんです。
みつのりさん:本を見ていると、不思議な時間に誘われているような感覚になりました。もう半世紀近く前に描いたもので、最近は見返すこともなくなっていましたから。
――いろいろな思い出が蘇ってきたのではないですか?
みつのりさん:そうですね、懐かしいですよね。時間を超えて、その時に戻っていくような。デッサンが無茶苦茶だったりしますけど、ヘタがいいと思って描いているところもあります。
――お二人のお気に入りのページが知りたいです。
太郎さん:僕は、こういう誰もいない部屋の絵とかがすごくいいなと思います。ただの絵日記じゃない何かがある感じがします。文章を読むと、サンタクロースからもらったプレゼントと書いてあるので、その日のことだとわかるんですけど、プレゼントをもらった瞬間の絵じゃないんですよね。忘れてしまいそうな景色が、このノートにはたくさん残っているように思います。

▲パラパラと本をめくる太郎さん
みつのりさん:このページを見てください。このズボン、滑り台の摩擦でお尻のところに穴が開いちゃったんです。それを継ぎ当てで尻尾を付けて。光子が気に入っていたんです。懐かしいですよね。貧乏な家庭の暮らしをそのまま描きたかったんだな。

▲向かって右が該当ページ
太郎さん:僕がいいなと思うのは、ちょっとファンタジーな部分もあるんですよ。保育園まで一緒に来てくれたお母さんが帰って光子ちゃんたち園児が泣いていたら、涙があふれて、自分たちがお魚になっちゃって泳いでいるところを、先生たちが網とバケツを持ってきて助けてくれました、みたいな光子ちゃんの妄想を聞いて、お父さんが絵にしているんです。それって、写真だと絶対に残せないじゃないですか。

▲光子ちゃんが網で助けてもらっている!
みつのりさん:光子のなかに、空想の友だちがいるんですよ。不安な時なんかに出てきて、光子を助けてくれたり、何かを教えてくれたりするんです。太郎の妊娠がわかった時に、男の子か女の子かを聞いてきたり。倉敷の展示を見てくださった方のなかにも「私にもそういう存在がいました!」と共感してくださっていました。
太郎さん:でも、そういうファンタジーの要素は年齢を重ねるにつれて、だんだん減っていくよね。人間になっていくというか。
――光子さんも本はご覧になったんでしょうか。
みつのりさん:娘も自分用に1冊持っているんですけど、特に感想は言ってこないね。一人で見てくれていると思いますよ。倉敷で先行販売した時にたくさんの方に買っていただいて、その時は喜んでいました。「こんな高い物を」と。
太郎さん:この厚さでこの値段は……。しかも、フルカラーなんだよ。
――かなりコストを抑えているだろうなという印象です(笑)。安いくらいですよね。
太郎さん:ありがとうございます……!
初めての編集作業は「楽しかった」
――出版に至るまでにさまざまな工程があったかと思いますが、大変だった点はどんなところでしたか?
太郎さん:プロにお願いする部分は最小限にして、できる限りのことを自分でやればコスト面は解決できるだろうということが、周りの人に聞いてわかったことでした。なので、営業も編集も、書店さんへの納品も自分で担当しています。大変と思うか、楽しいと思うかはその人次第ですよね。僕は小さい頃から、お父さんと絵本や新聞をつくる時には「たろう社」という名前を使っていたんで、本当にその名前で会社をつくったら面白いかもしれない、というのがスタート地点でした。
――あぁ、素敵ですね。楽しんでやっていたと。
太郎さん:子どもの遊びの延長みたいな部分はあると思います。

▲子ども時代の「たろう社」で発行していた新聞
――でも、さすがに約1000ページのスキャンは想像を絶するものがありそうです。
太郎さん:Photoshopでトリミングをしたり、ヨゴレを消したり……。スケジュールが間に合わなくて、お姉ちゃんに手伝ってもらった部分もあります。
みつのりさん:光子がその作業をしている様子をちらっと見ました。できるだけ見ないようにしましたけど。太郎から話を聞いていたものの、本当に本になるのだろうかと少し怖い部分もあったんです。太郎は忙しいから余計にです。評価の定まっていないものを頑張って本にしようとしてくれているけど、大丈夫なのかなと。
――でも、SNSを見ていると評判は上々ですよね。
太郎さん:届いている実感はあります。
――『ぼくのお父さん』には、太郎メモノートも3冊あると書いてありました。そちらも期待していいでしょうか。
太郎さん:そうですね〜〜、光子メモノートなら、あと1000ページあるので出そうと思えば出せるんですけど。
みつのりさん:太郎のノートは少ないんですよ。光子の時は1歳の絵本をつくったと話しましたけど、太郎の時はつくってないんです。それは、いつか描きたいと思っています。
太郎さん:え、未だにそう思ってるの!?
みつのりさん:そうだよ。
子どもの成長記録を描かなくなった理由
――光子メモノートを描かなくなったきっかけって、何かあったのでしょうか。
みつのりさん:小学校に入ると、子どもの世界が広がっていくんですよ。それまでは親の目の届く範囲で動いていたけど、友だちも増えてくるでしょう。そうすると、お父さんが一緒にくっついてくるのは当然嫌なんですよね、娘からすると。子どもは子どもの世界で生きていくんだと理解したことが、きっかけでしょうか。
太郎さん:それって、『光子ノート』を見ていてもわかるんですよ。最初は光子ちゃんとお父さんだけだったのが、だんだんいろいろな人が登場してくるようになるので。光子ちゃんが社会に出ていく過程で、絵柄も変わっていくように感じました。お父さん自身も、きっと社会ともう一回つながり始めたんです。そういう二重構造が見える一冊になっています。
みつのりさん:その頃、四谷にビルを持っているオーナーの方から、空いているフロアで子ども向けの造形教室を開いてくれないかと誘われました。その造形教室で、自分自身も多くの子どもとの出会いからいろいろなことを学び、視野が広がっていったんですね。僕が『かばさん』(こぐま社)という絵本を出版したのも同じ時期です。ちょうど太郎が生まれた年ですね。
――みつのりさんにとって、この『光子ノート』を描いていた時期は、どのような時間でしたか?
みつのりさん:幸せな時間でした。僕はどん詰まりでしたけど、家内も僕を見捨てないでくれて、娘から生き方を学べた時間だったのかなと思います。好きなことをやればいい、と。今日も駅まで車で送ってもらったりと、娘には今も世話になっています。
――太郎さんが、みつのりさんと同じような仕事をしているのも感慨深いところがあるのではないでしょうか。
みつのりさん:そうですね、不思議な気がします。
――最後に、『光子メモノート』について「たろう社一冊目の本です」というキャッチコピーがありましたが、たろう社の今後の展望を聞かせてください。
太郎さん:そうですね。『大家さんと僕』(新潮社)を描いた時も漫画家になりたかったわけではなくて、純粋に大家さんのことを描きたかったからなんです。たろう社も、出版社をつくりたかったわけではなくて、この本を出したいというところから始まったので、この一冊限りということもあるかもしれません。でも、出版物をつくる、そして流通させるにあたっての全体像が掴めたのは、僕にとってすごくいい経験になりました。
みつのりさん:姉妹社にとっての『サザエさん』みたいだね。
太郎さん:国民的マンガと並べないで!(笑)
――僕も遠くない未来に、自分の会社に出版物を出す機能を持たせたいと思っているので、とても参考になりました。ありがとうございました。

▲最後はツーショット。取材を受けてくださり、ありがとうございました!